西垣 肇也樹

息の緒

Hayaki Nishigaki

コスメティック(化粧品)はコスモ(宇宙)を語源とする。かつて人々は泥を肌に塗り、石をアクセサリーにし、未知なる宇宙(秩序)との対話を図ろうとしていた。しかし近代史にある産業革命は、人に自然を操作する術を与え人が秩序とするものだった。国芳は西洋画に興味を持ち、コレクションを他人に見せるほどのコレクターであったが、その研究から彼は、西洋人(人)が宇宙(秩序)を生み出していくとする思想を知ったはずだろう。そこで彼はアルチンボルトを参照にしながら、顔に裸の“人”を着せる=コスメティックと皮肉ったのである。アニミズムが存在する日本人から見れば、西洋人のその考えは先進的であり、暴力的であったはずだ。
初代ゴジラは唯一被爆国民の代弁者として登場、上映されるも、時代の変化とともにヒーロー化を遂げ、環境問題を取り上げ、自身の息子も登場し父親へと変貌していく。ゴジラはある時代設定の中に配置され、コンテクストと自我の無い怪獣となってさまよい歩いてきた。自我の無いゴジラは何かを代弁する器としての価値(日本人)を持たされたのであるが、中身は初代ゴジラの本質とはかけ離れたものであった。
それに似た現象が現代の情報コミュニケーションの、ある一定の部分にも存在する。メールやSNSを始めとするネット上で行うものは、作者から離れた位置にコミュニケーション環境が設定されることで、そのコミュニケーションは常に管理される。これを環境管理型権力という概念で捉えてみると、その環境下に於いて様々な定型文のアプロプリエーションによって、特別な自我を無くされ記録され操作されていく。すなわち私たちのコミュニケーションはその環境下においてコミュニケーションの無意識化を推進し、円滑なコミュニケーションを可能としている。
かつて自然が秩序として存在し、対話を図ろうと泥を塗り、コスメティックがコミュニケーションの欲求だったものが、欲求そのものの簡素化が進むことで、それが新たな秩序とする環境を可能にし、再設定されている。私は国芳の内在するものを見つめる視線、手法をパスティーシュすることで、器=ゴジラ(日本人)に定型文=秩序をコスメティックする。それは、記録材料としての墨を器としての怪獣にペーストさせ、内在するものの表面化及び、コミュニケーション欲求の秩序再考および再提示が目的である。

西垣 肇也樹

西垣 肇也樹 1985年兵庫生まれ。2012年京都造形芸術大学大学院修士課程芸術研究科芸術表現専攻修了。2014年から京都の銭湯をアートのプラットフォームとする、『京都銭湯芸術祭』を企画、運営。2015年から様々なアート、場所、人へコネクトする京都共同スタジオ“スタジオハイデンバン”を設立し、活動を続ける。主な受賞歴に、2012年京都造形芸術大学終了制作展/大学院長賞、第四回松蔭芸術賞受賞など。